和田玉は7000年もの長い歴史があります。
特に、商の時代の玉、周の礼玉、秦始皇帝の印環の玉(御璽)、漢の時代の玉衣、唐の装飾玉、宋の観音玉、元の山大玉海、明の子岡牌、清の彫刻の玉など、各時代の有各な芸術品が見て取ることが出来ます。玉器は歴史の政治、文化、道徳、宗教面などの各方面に特別な役割を果たしてきました。
吉祥を願う和田玉
和田玉は、人間と神霊界を結んで、万事めでたく順調であることを祈り災いから身を守ると考えられています。
現在、玉を身に付け、常に持ち続けることは、吉祥の言葉と図案、模様を通して吉祥を祈る共通の願いを反映したものであります。吉祥を求めるのは古今人類の共通の願い。
人々が安定した生活に対する憧れであり、歴史的にみても長年の文化と経験によるものであることから、和田玉は貴重なものとして扱われています。
平和・安心・厄除けとしての和田玉
「玉記」の作者陳原心は、「晴川閣で遊んでいる階から落ちたが幸なことに玉を作っていたので死ぬことはなかった」など、昔から人々は玉を大切にし、大変貴重なものであって玉を身につけることは光栄であることとされています。
玉は信頼できる守りとされ、幸運とめぐり合い護身にもなる可能性があると考えられており、玉が厄除けに役立っています。
少なくとも人々の共通の願いでもある平和と安心、さらに和やかな環境と雰囲気を作ると信じられています。
財産地位を表す印として
玉器は、古くは貴族身分、階級、財産の目安とされました。
玉は身分、階級の人に応じ、階級を混合しないため、色と質の良し悪しがはっきり厳密に区別されていました。
また、玉は身分と宮位の高さを示すものだけではなく、財産の量を他人に示すおおまかな基準となっていました。
少し前までは玉を持つ人は裕福な金持ちの出身であることを示し、一種財産地位を表す印だと考えられていましたが、現在は装飾品として広く普及しています。
長寿の特徴
中国では、古くから玉を食べると健康を保ち長寿になると考えていました。
玉を作った「琉漿玉液」「神仙玉液」「玉膏」等は、今でいう健康食品でその機能は「之を服すると長寿不老たる」と言われています。李時珍の「本草網目」には玉の性質は甘くて「心肺を潤す」のが可能で「胃の中の熱を除ける」「喘息を止める」「渇きを止める」等の記載があり、玉で顔を磨けば滑らかになり、毛髪を鮮やかに潤すと伝えられています。
和田玉の歴史は、紀元前5000年前から始まります
紀元前5000年~紀元前2100年
人類は石よりもっと美しい玉石を発見し、主に農耕農具や武器、祭祀や簡単な装飾品に利用しました。
古書「端応図」や「尚書」の中に、「黄帝の時、西王母が使いを遣わし、白い鹿に乗ってやってきて、黄帝に白い環の符環(めでたい印)を献上させ、舜の時代にもまたやって来て、白い環を献上した」と記載されています。
また、楼蘭の遺跡に新石器時代に使った和田白玉で作られた石斧が見つかったり、仰龍文化、良渚文化の遺跡にも白玉を彫刻して作った祭祀器が発見されています。
紀元前2100年~紀元前770年(夏、商、西周)
中国の青銅器の発明により、玉器は実用を主とするものから「礼儀、装飾」を主としたものに変わってきました。そして、支配階級の構成を象徴する印(証)となっていきました。
玉で作った器具は政治、道徳、宗教、倫理などの多くの分野で重要な役割を果たすようになり、「玉を持って六器を作り、天地田矛を礼す。」「玉を持って六端を作り、国事を正す。」「君主は玉を持って公候大臣を召見す、公候大臣は玉を持って君主に仕える。」など伝えられてきたとの記載があるほどです。
この様にして、和田玉は中国数千年の封建社会の歴史に、至大な影響を与えていくのでした。
春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221)
中国の青銅器の発明により、玉器は実用を主とするものから「礼儀、装飾」を主としたものに変わってきました。そして、支配階級の構成を象徴する印(証)となっていきました。
玉で作った器具は政治、道徳、宗教、倫理などの多くの分野で重要な役割を果たすようになり、「玉を持って六器を作り、天地田矛を礼す。」「玉を持って六端を作り、国事を正す。」「君主は玉を持って公候大臣を召見す、公候大臣は玉を持って君主に仕える。」など伝えられてきたとの記載があるほどです。
この様にして、和田玉は中国数千年の封建社会の歴史に、至大な影響を与えていくのでした。
秦、漢、魏、晋、南北朝(紀元前221~紀元589)
この時期は、白玉の彫刻工芸が大きな発展を遂げた時期です。
秦の始皇帝は、「四方の珍材を窮める天下の巧工を集める」と指示し、始皇帝の白玉の印章「伝国璽」を作りました。これは有名で、精密で綺麗に仕上がり皇帝の気概を示している和田玉と言われています。
漢の時代は中国の玉工芸が発展をとげた黄金時代でした。
積極的に玉器の種類を開拓して、礼器、葬玉、佩玉、玉の飾り物の四種類が特に発展しました。どの時期の彫刻も、表情、模様が滑らかな曲線で表現されました。
隨、唐、五大、宋(紀元589~紀元1279)
この時期は、国内外の経済、文化交流が盛んになり、伝統的な玉彫刻にも影響し、金と銀を合わせた新しい五器などの作品も出てきた時期です。
唐代に入り、国が富み民が栄えると、多くの和田玉が採掘され、社会で玉を使う気風が日々盛んに流行しました。
宋代には、玉を使うのが更に盛んになり、白玉の彫刻も次第に円熟の域に達し、文房具や遊び用の小物や小さい飾り物が大量に現れてきました。例えば子供象、鳥類、果物など、形やデザインが自由で生き生きしていて細工も精巧になり、宋代の玉の彫刻は、中国古代現実主義の最高水準の作品になっていきました。
元、明、清(1279年~1911年)
この時期、元の時代代と明の時代を合わせた400年間で新彊の玉が1500トンにもなり、玉の彫刻工芸は凄まじい勢いで発展しました。元の時代の支配階級は、玉を好み全国各地の有名な工匠を招集し各地で玉器を製造させました。
この頃の作品は生き生きとして写実的な独特な特徴をしています。
明の時代には、玉の工匠は北京や揚州などの都市に集められ、多くの素晴らしい玉の芸術作品を作り出しました。炉、瓶、壺を基本的な形とした、様々な芸術的な玉器が現れる様になり、北京の故宮に秘蔵されている作品「梅花花挿」は、明の時代代の玉材料の質と枝術の高さを示す、ずば抜けたレベルに至っています。
清代は、新彊の武装反乱を鎮圧したので新彊社会が安定し経済も発展しました。乾隆25年から嘉慶17年までの42年で、200トンあまりの玉材が使用されました。
康(熙)雍(正)乾(隆)の三代皇帝は皆玉器が好きで、宮廷に専門の玉の加工工場(玉作)を設立しました。中でも乾隆皇帝は、格別に古い玉に関心を持っており、自ら玉工場の生産を指導したと言われています。
清代の玉の工芸は細工が良く、表現も多種多様でその芸術のレベルは高度に発展につながりました。
近代、現代、当代(1911年~)
清王朝が崩壊して、中国の玉彫刻の経営は苦心惨憺たる状態になりました。
しかし20世紀(1940年代末)に、新中国が誕生し、玉の彫刻工芸は明るい道が開けました。北京、揚州、上海、天津、広州、遼寧や新彊などで、相次いで彫刻技術と伝統が受け継がれたことで、さらに発展できるようになったからです。
20世紀(1960年代)以後、彫刻技術の流派も多くなり、「北派」「揚派」「海派」「南派」の4つの流派が形成され、それぞれの玉彫刻のデザインと技術が繁栄していきました。
近年の北京オリンピックでも、メダルに和田玉が使用されたということで、和田玉の価値が上がってきています。
※ 参考文献:2011 骨董品オークション年間(湖南美術出版社)より、原稿・写真転載しています。